児島八十八か所巡礼 第53番 阿弥陀庵
倉敷市
続いて阿弥陀庵である。
児島霊場が開設されたときの53番札所は大願寺であり、熊野神社に隣接して現在もその跡地が残っている。

明治に大願寺が廃寺となったときに、同じく廃寺となった覚城院の跡に小さなお堂を設けて札所としたのが現在の阿弥陀庵である。
この地に新熊野山を開いたのは修験道(山伏)の祖、役小角(えんのおづの)の五人の高弟で、それぞれが五つの寺院(五流)を作ったと言われている。
その一派は五流長床衆と呼ばれ皇室に尊崇されて大きな勢力を誇った。
覚城院はこの長床衆のひとつであった。

一方、大願寺は熊野権現勧請以来の別当寺で、天台宗であるが山伏ではなく、山伏以外の非座衆の貫首として往時には35の末寺を有した。
これら長床衆と大願寺は、共に神仏習合の新熊野山を構成していた。
江戸時代に岡山藩主池田光政が領内の寺院を整理した際に、新熊野山の附属寺坊二十余を廃寺するとともに、神社については由緒を尊び岡山藩の特別崇敬社とし、吉備津彦神社から祠官を招いて神前祭祀に専従させた。
以後新熊野山については、この祠官と長床衆、大願寺の三者が奉仕することとなり、三方守護と呼ばれた。

さて、山門は民家の門のような簡素なもの。(写真1)
お堂は入母屋造りの小振りな建物で、前に休憩所がある。(写真2)
向拝の石段に明治22年の年号が刻まれており、これがお堂の建立された年であろうか。
石標は札所番号だけであるが、かなり大きなもので、大願寺の頃に設置されたのかも知れない。(写真3)
また、神社の境内近くにある三重塔は、明治になって新熊野山で存続した寺院が五流尊龍院だけであったため、同寺の所属となり現在に至っているが、元々は神社の維持管理が大きな役割とされていた大願寺が江戸時代後期の文政3年(1820)に建立したものである。(写真4)

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